日が昇る前の駅は人工の白い光をたたえて、まばらに行き交う人の靴音やスーツケースを転がす音なんかがやたらと響くだだっ広い構内に、滑らかなアナウンスを行き渡らせていた。まだ足元に朝靄を感じるような、早朝の東京駅。始発が集まるような時間帯では、さすがの巨大ターミナルも昼間のように賑わってはいない。
店のほとんどがシャッターを閉めている中、始発に合わせて仕事を始めていた土産物屋さんに「ありがとな」と感謝の言葉を投げ掛けた天道は、そのまま待ち合わせ場所である改札の方へと足を進めた。片手にはバナナ型のお菓子が入った紙袋、片手には別の店で買ったおにぎり。肩に掛けたバッグのベルトがずり下がったのに慌てて、荷物をまとめ、位置を直す。
古い駅舎を復元した丸の内側が好ましくて通るたびにテンションが上がるけれど、ノスタルジーを感じるのは八重洲口の方だなと天道は思う。
理由は簡単で、実家と行き来する時はいつもここを使うから。上京したばかりの時はよく駅の中で迷ったものだ。
でも今は、と考えながら、顔すら向けなかった案内板の下を斜めに突っ切る。さすがに迷っている人に教えられるほど詳しくはないけれど、よく使う駅への乗り換えならスムーズに出来るし、始発の時間から開いている店の場所も知っている。新人アイドルには地方営業で当日入りという仕事も少なくなかったから、その頃にも覚えた。
以前に比べるとすっかり開放的でピカピカした空間になってしまったものの、やっぱりここは、いつ来ても少し懐かしい。見上げれば馴染み深い地名を掲げた電光掲示板があって、横を見れば地元に誘うポスターやパンフレット、たまに地元訛りの話し声が耳を掠めることもある。
ふるさとから地続きの愛着はずっと変わらずに抱かせてくれて、何かを始める時、休む時、いつもここで見守っていてくれるような──今日もだな、天道はそう頭の中で呟いて、改札前に佇む桜庭の背中に目を細めた。
待ち受けているのは楽しいばかりのことじゃない。それでも。
◇
あれは一ヶ月ほど前、仰向けでもがいていた蝉が動きを止めたのを、すぐそこの地面に見ていた夕暮れだった。
ふと思いついたといった様子の桜庭がこちらに顔を向け天道と呼んできて、何かと思えば、「悪いが後で十秒ほど唇を貸してくれないか」、なんてことを酷く投げやりな調子で言った。
「僕のそれで触れてみるだけだ」
途中で目を逸らし、気まずげに付け加えて。
何を言われたのか、すぐには分かっていなかった。
あの桜庭が “悪いが“ なんて殊勝な前置きをしてまで天道に頼みごとをしてくるなんていうのは、とんでもなく珍しいことだ。珍しくなくたって、仲間に頼られるのはそりゃあ嬉しいに決まっている。だから天道は反射的に喜んで拳を握り、いくらでも貸すぜという言葉を発しかけ、しかし天道よりも素早い反射がすぐ隣にいたプロデューサーから──えっという小さな声だけだったけれど──上がって、その声によってブレーキを掛けられる形で、天道は桜庭からの依頼をきちんと吟味した。
手を貸せ、とそんなことを言われたように受け止めていたが、よくよく思い返してみれば細部が違う。
貸せと言われたのは手じゃなくてもっと具体的な部位だ。
唇。
それに桜庭が唇で触れてくる。
示された手順を示された登場人物で想像して、「キスじゃねえか」、喉まで来ていた承諾の言葉を押しのけてまで飛び出した独り言を、プロデューサーも「キスですね」と同意した。桜庭は何も言わなかった。つまりそれで合っている。
困惑した。
仕事の話かと真っ先に考えたが、その割に胡乱げな桜庭の態度が解せなかった。言葉の足りない男を真っ先にフォローするはずのプロデューサーも、その話はお二人でどうぞと離れていってしまい、どういうことだと目線で聞けば、「プロデューサーは知っている」と、つっけんどんに言う。
最近はマシになっていたように思うが、桜庭というやつは筋道立てて話をする能力も経験も十分にあるくせに、肝心な時に言葉が足りない。どうせまた、必要性を感じないとかなんとかいう理由でごねているだけだろう。もっとわかりやすくしゃべれよという文句に、一から十まで説明せずともいいだろうという文句で返されていつもの喧嘩。そのうちに買い物を済ませた翼が戻ってきてしまったのに話を続けようする桜庭をどうにか説き伏せて、詳しくはその日の夜に電話でということになった。
地面にいたはずの蝉は生き絶えてはいなかったのか、いつの間にか姿を消していた。
天道が予想していたように、それはそれなりに大した話だった。まあ、あの桜庭が天道にキスをさせろと申し出る理由が、大した話じゃないわけがない。
風呂から上がったあたりに掛かってきた電話で、桜庭はまず、君のことを友人だなんて思っていないし恋愛感情も持ってないから勘違いするなと強く言った。まだ特定には至っていないが精神疾患の一種だろうと。そしてすぐに話を終わらせたいのか天道が口を挟むのさえ許さず、早口でこう続けた。
一度定まったはずの君への評価が、この頃強く揺れ動いている。揺れるというより、全く角度が変わると言っていい。まるで方位磁針に磁石を押し付けた時のように、些細な動きでころころと変わる。しかも時には、その原因さえ不明だ。些細な事でも理由がはっきりしてるならまだいいが、ほとんどが理性的でない言いがかりで、しかも振れ幅が大きいから無視もできない。
例えば君の無精髭を毟り取りたいほど鬱陶しいと思って見ていたはずなのに、君が鏡に向かって楽しげに顎をさすり出したくらいで、さっきまでとは真逆のことを考えている。君が待機時間の楽屋で同じ本を読んでいるだけなのに、次の仕事に集中しろと文句をつけたくなったり、無関係の知識が仕事に繋がることもあると感心したりする。知らないスタッフと話しているのを見ては、無意味な警戒と信頼が入り混じる。
理由の無い感情は勘と呼ぶのがいいか、何にせよそんな頼りないものに、僕はいちいち混乱させられる。
僕は君のあらゆる行動についてどう考えていいかわからなくなり、同時に自分の感覚を信じられなくなった。心底気持ちが悪い。君以外の誰に対してもこのような問題は起きていないが、まだ一人だけのことだからと放っておくことも出来ない。ユニットのメンバーだからな。理由がはっきりせずとも、もしマイナスの評価ばかりが積み重なれば根底の信頼にも影響するだろう。それだけは避けたい。
今のところは無用な心配だが、と結んだ桜庭の声は、言葉に反してまるで望みのない願いを語るように強張っていた。そんなにも不安なのか。はっきり言葉にはしないまでも、君を揺るぎなく信頼していたいのだと桜庭は言っていた。
──やっとのことで得られたあいつの信頼を、まさか失うかもしれないような事態になっていたなんて。
天道も桜庭の苦悩をどう捉えていいのかわからず、混乱しつつ電話を持ち替え、額の方から前髪に指を差し入れて目を閉じた。
聞けば桜庭は、一年近くこの悩みを抱えていたのだという。気付かせずにいた桜庭に一抹の寂しさを感じ、いや、格好いい奴だよなと自分の中で打ち消していた。
天道のことをどう思っていようが仕事は完璧にこなす。それはたぶん桜庭の意地だ。確実に嫌われていただろう最初の頃──チームを組んだばかりの時のようなぎくしゃくとした空気を、ここ一年の仕事中に感じたことはない。いまの話を聞く限りでは、ずっとこの先もというわけにはいかないのだろうが。
そしてもうひとつ、話をするにあたってどうして桜庭が「恋愛感情」なんてワードを出してきたのかということも気がかりだった。そもそもキスをさせろというのが桜庭の言い分だったのだ。どうして。
断言出来るが、桜庭との間に ”良い雰囲気” なんてものが漂っていたことは絶対に無い。一年前どころか出会ってこのかた、天道を見る桜庭の目に、ハートマークが浮かんでいたことは一度も無かった。天道はそれをよく知っている。
確かに、いまの桜庭の言葉を丸めて味付けすれば愛憎相半ばするってな感じだけれど──いやありえない、調理しすぎだ。
原因は違うところにあるんだろう。評価が揺らぐのは天道のことだけだと言っていたから、素直に考えれば天道の方に問題がある。
普段から喧嘩ばかりしているし、天道はたまに勢いでものを言ってしまう、原因を考えるとすればまずそこだ。無意識のうちに、何か桜庭の心を抉るようなことを言っていたとか、何か。といってもそれで思い当たる節はないから、毎日ちょっとずつの不快が積み重なって嫌われてしまったという方がありえるか。──ありえるのか。何気なく嫌われたのかもしれないのか、桜庭に。
桜庭はたぶん、感情のみで評価を左右することを良しとしない。何かがあって、あるいはさしたる理由なくも心は嫌いながら、理性の方がバランス取るために天道を良く見ようとして。そんな頭と心の動きが、桜庭を悩ませているんじゃないだろうか。
「……と、俺は思うんだけど……、」
考えた末、天道は桜庭に最終的な予想だけを伝えてみることにした。心が張り裂けそうに軋んでいたが、もし桜庭が気づいていないのだとすれば教えてやるのが筋だ。
天道としては伝えるのにそれなりの覚悟が必要だった説を、桜庭はしかしあっさりと一蹴した。
『それは違う。気が合うとまでは思ったことが無いし好きでもないが、嫌ってなどいない。僕は嫌いな相手を自分の家に上げたりしないからな』
「でも無意識に嫌ってるってこともあるだろ」
『無い。その件については徹底的に検討した。間違いない』
「ほんとにか? 俺がなんか、すげえイヤなこと言っちゃったとかしちゃったとかさ、」
『しつこいな。君ごときに何か言われたくらいで、僕が傷付くとでも?』
「そりゃそうだけど」
『何度も言わせるな。不愉快だ』
「……、ごめん」
桜庭の言い分はわかる。
お互いがお互いに自分の理解から遠く離れた存在だってことを知っているからこそ、傷つけることも傷つくことも難しい。仮に天道が心から大事にしているヒロイズムや顎の髭にメスを振るわれたとしても、めちゃくちゃ腹が立つだけで少しも傷つきはしないし、やっぱり嫌いにもなれないし、逆に桜庭の夢に対して天道が何を言おうが──その場合は怒らせることすら出来ないだろう。あんなにも日常的に喧嘩しておきながら、考えてみれば桜庭の心を抉るような手立てが一つとして思い浮かばない。そんなもの思い浮かばなくてもいいんだが。
でも仕事に関してならどうだろうか。たとえば、天道が突然仕事を放り出して逃げたり、ファンに顔向けできないような過ちを犯したりなんかしたら、それはもう怒り狂い、天道を信じていた自身にも何かしら思うことがあるだろう──が、だとすれば、桜庭ではなくプロデューサーからとっくに糾弾されている。
プロデューサー。
「知っている」と桜庭は言っていた。天道よりも先にこの件で相談していたということだ。──まさか、友情だの恋愛感情だのと言い出したのはプロデューサーなのか?
保留にしていた謎がいよいよ気になって、我慢できず、先ほどのやり取りから黙り込んでしまった桜庭に問い掛ける。
「なあ桜庭、この話ってプロデューサーにもしてるんだよな? プロデューサーはなんて?」
『……っ』
「おまえが最初に、……友情じゃないから勘違いするなとか言ってたのは、プロデューサーにそう言われたからなのか?」
『…………』
「桜庭?」
『…………』
「ん? あれ、聞こえてねえか、ひょっとして」
『いや……、聞こえている。そうだな……、プロデューサー、だけじゃない』
「え」
『考えうる限り、この件で頼れそうな知人はすべて当たった』
「すべて……って、翼とか? 俺、初耳だけ……ど」
反射でぶつけた不満を、桜庭はいかにも重苦しい鬱陶しそうな溜息でいなし、それからひどく憂鬱げな調子で語りだした。
天道に対する評価が揺らぐ、桜庭にとって問題だったのは、そのことをひたすら考えてしまうことにもあったらしい。
方位磁針の喩えを引っ張るなら、針が動いている時に歩き出すことは出来ない、ということだ。知っている道を歩く時だって、方位磁針が揺らいでいれば気になって見てしまう。つまり評価を定めようと、一つ一つの事柄を考え続けてしまう。天道のことばかりを考えてしまう。
それで、これは何かの精神疾患に違いない、と桜庭先生は本人曰く門外漢ながら判断したらしい。
自分では手に負えないと見切り、複数の心理士をあたった。それから、桜庭を知る人間にも広く相談した。プロデューサー、翼、北斗、先生たち、みのりさん、前の職場の先輩、元同僚、桜庭がたまに口にしている例の教授、先輩、果ては翼の親にまで頼り、天道に話したことよりもさらに多くの言葉を用いて判断を仰いだのだと桜庭は呻いた。日々の不安や苦悩、まとまりきらない天道への感情を、それから天道という人物に対する彼ら自身の評価を。──知らないところで思い切り話題に出されていたというのは、なんというか面映い。全員が君に対して好意的だったと桜庭は言ったが、信頼する面々が褒めていても、桜庭の評価はいっそう乱れるだけだったらしい。
そこまで幅広く頼っておいて当事者っぽい俺は最後かよとはもう言いっこなしだ。相談出来る相手がたくさんいるというのは素直に喜ばしいことだと思うし、当事者だからこそ中々言い出せなかったんだろう。と、納得した。
でもどうやら桜庭は、相談したほとんどの相手に、それは天道に対する強い好意や執着から来る症状じゃないかと診断されてしまったらしい。異性なら恋の可能性が高く、友人だとしてもそうおかしなことではないのだと。──そんな風に友達のことに心揺さぶられるのは一般的に思春期特有の現象なのだと知っていたようで、あるいは裏付けのために勉強したようで、ひどく苦々しい口振りで天道に伝えてきたが。
その上で。
ふざけた話だ、と電話口の桜庭は強く憤ってみせた。
天道はただの同僚であって、友人だの、ましてや思慕の対象などであるわけがない。
ましてや、と言った声が、ことさら烈しい怒りに満ちていた。桜庭としては後者の、恋煩いだと診断されたことの方が腹に据えかねたらしい。男だからか天道だからなのかははっきりして欲しかったけれど、繊細な問題だからおいそれとは聞けない。
友情の方まで否定しなくてもと天道などは思うが、桜庭にとって友人とはよほど特別な存在なんだろう。その存在について、天道との会話の中では一度も口に上らせたことのない男だが、桜庭みたいないいやつの側にこれまで誰もいなかったのだとすれば、桜庭はどんなに周囲と関係を拒絶していたんだと悲しくなってしまう。
『僕は断じて君の友人などではないし、恋愛に興じる気もない。嫌いでないのと同じように、僕はそれを断言できる』
桜庭は噛んで含めるような低音でそう言った。だが信頼する面々に言われたことを完全に否定することはできないということも。
天道には、何も言えなかった。
そんなわけで桜庭は、気の迷いとルビを打ち込んだ”恋”の方から否定してみることにしたらしい。どちらも違うのは確かだが、友情の否定方法などわからないし、とりあえずキスでもすれば片方ははっきりするだろう、と、そういう意図でもって桜庭は、天道に唇を貸せと言ってきたのだ。
『キスにこだわってるわけじゃない。確証が得られればそれでいいんだ』
患った何かが恋などではないという確証さえ得られれば。
電話越しに全てを吐露した桜庭はまたしても重苦しい息を吐きこぼした。天道に伝わったのはほとんどが雑音だ。君に恋などしていないことを確かめさせてくれと、それだけがクリアに聞こえた。
「キス、なぁ……」
浮かんでしまう苦笑が音に乗らないようにしながら応えて立ち上がり、寝室に入って本棚の前に立つ。扉から入る光に頼って探ったのは、先月出た雑誌だ。背表紙のナンバーを引っ張り出したところで、短い沈黙すら待てなかったらしい桜庭が息を吸う音が聞こえる。
『──無理はするな』
多くの言葉を呑み込んだことが窺えるような重く柔らかな声音だった。
桜庭のことだから、虚勢とか言い訳とか遠慮とか罵倒とか思いやりとか、きっと山ほどの言葉が唇の内側に控えていたんだろう。それを留めたのは、桜庭が本当に参っていて、天道に救いを求めたかったからに違いない。ようやく周囲を頼れるようになった桜庭が方々に声を掛けた結果には絶望しかなくて、最後の砦へ駆け込むように、終着駅の扉を叩いた。この件に関しては、天道は桜庭の敵だ。もしかしたら天道に拒絶されることすら望んでいたかもしれないと邪推してしまう。
天道に恋をしているかもしれないと分析してしまったことは、桜庭にとってどんなに辛いことだろうと天道は想像する。桜庭にはやることがある。時間がない。心の余裕もない。それどころか職業柄、恋は障害にもなりうる。男相手に恋だと言われたのも、意外に世間体を気にする桜庭にはショックだったかもしれない。実際の性的指向がどうあれ、もし桜庭がそういう性質だったとしたら隠し通すだろうから。
桜庭の望み通りにキスをしてやって、ドキドキしたりしなかったろ、大丈夫だぜ、と言ってやったら、桜庭はきっと心から安心する。身体を張ってサービスした天道に、笑ってもくれるかもしれない。さすがに期待しすぎか。
──つまり断じて、俺の方はおまえのことずっとずっと好きなんだぜなんて、歓迎しちゃいけない。扉を開けて引き入れてはならない。
「ばか、おまえ相手に無理なんてするもんかよ」
少しの笑い声を混ぜながら返した声は、桜庭の耳にちゃんと軽口のように聞こえただろうか。電話向こうに神経を尖らせながら、小さな明かりをつけたベッドの縁へ腰を下ろす。膝の上に開いた雑誌、その中にある目当てのページにはドッグイヤーをつけてあるから開くのはすぐだ。話しながら手探りでめくる。
「まー、おまえの頼みならキスのひとつやふたつ許したって構わねえけどさ、意味なんか無いと思うぜ」
これでも元弁護士だから、桜庭みたいに理屈を捏ねるのも不得手なわけじゃない。
『……どういうことだ』
「んー……」
程よく興味を引いて、程よく待たせる。考えている振りをしながら開いたページには、最終章目前特集という文字が青とピンクの二色を使って彩られている。そこには少し前に放映されていた深夜ドラマで桜庭が演じた男が、少し歳上のヒロインと軽くないキスを交わしているシーンが大きく印刷されていた。焦点が合ってしまう前に、視線を下へと逃がす。
このシーンを、天道はまともに見ていない。まともに、と挟んだのは、天道がこれを初めて目にしたのが次回予告だったからだ。録画までして毎話欠かさず楽しみに見ていた天道の目に飛び込んできたキスシーンだった。
そりゃあ恋愛ドラマなんだからキスシーンくらいある。天道だってしてきた。でも味のある準主役や憎まれ役ばかりの桜庭にこれまでキスシーンなんて一度も無くて、だから油断していたのだ。予告程度で怖じけづき、まだその勇気が出ないまま、残り二話だけが未視聴のまま、天道の中で凍結した。この雑誌だって記事を読んだだけで写真の方はしっかり見られていない。桜庭に悪いと思わなくもなかったが、時間が経てば経つほど、画面の中で生き生きと動くあの男をドラマの中の役ではなく桜庭だと思ってしまいそうで嫌だった。天道はもう、何年も前から桜庭への恋心を押し隠している。
桜庭は知らない。天道がどんな気持ちで雑誌を手に取り、いつでも開けるように耳をつけたのかを。
天道は知らない。桜庭がどんな気持ちで、いつ、何テイクくらいで、この女優とキスをしたのかを。撮影期間中は一緒の仕事がほとんどなかったから、顔を合わせることも少なかった。
もし天道がこのシーンの撮影日を知っていたとしても、見物に行ったりはしないし、撮影前の桜庭と撮影後の桜庭に、どんな変化も認めることは出来なかっただろうと思う。クランクアップしたと帰ってきた後も、予告が流れた後も、その次の週も、桜庭は桜庭で、桜庭だった。
天道が全く関知しないところで桜庭は仕事でキスをすることを覚悟し、そして実行した。仕事なら躊躇わない男だということだけは知っている。
つるつるの紙の上、問題のショットに被せるように白抜きの文字で並べられたインタビューの一文、 『桜庭:プライベートでもキスをしたことがなかったので、さすがに緊張しました。』 をゆっくりと親指でなぞる。これを公表するかどうかで、ちょっとした話し合いがあったらしい。それも後で知った話だ。
「おまえがさ、」
『何だ』
すぐさま返ってきた相槌に思わず唇が緩んだ。声にどっしりと乗った苛立ちが妙に嬉しくて、桜庭だなぁと胸の内で言葉にしつつ、先を続ける。
「おまえが俺とキスなんかしたところで、それが恋かどうかなんて判断できねえだろってことだよ。だってあんなもん、おまえにとっちゃ何でもない接触だろ。手を繋ぐのと変わらない」
『……僕にだって人並みの感覚はある。キスと握手は別物だ』
「そうか? だったら仕事でキスした時はどうだったんだよ」
『それは……、相手が他人だった。それに撮影だ』
「どれくらいドキドキした?」
『別に、変わらない』
「へえ。でも俺だって仕事仲間で、おまえにとっちゃ友達でもなんでもない他人だろ?」
『──天道! っ、いや、それはそうだが、僕たちは……!』
思ったより冷えた声が出てしまい、それを咎める桜庭の声が鋭く響いた。思わずって感じで怒ってくれたのは嬉しいけど、似たようなことを言ってたのはおまえだぜ、桜庭。
「俺たちは運命共同体だ、とおまえは言いたいのかもしれねーけど、なら一心同体なんだから、キスにしたって自分の身体に触るのと同じもんなんじゃねえのかよ」
『屁理屈だ。感覚は違う』
「じゃあ俺とハグした時になんか感じたか? 鼻が触れ合うような撮影もあったけど、せめて緊張したりしたのかよ、おまえは。感じたとして、俺と翼に思うところの違いがあったのか」
すらすらと淀みなく出てくるのは、それを天道が体験してきたからだ。息が止まった。興奮した。喜んでしまった。辛かった。仕事中に変なことを考えるなといくら自分を戒めても、ほんの一瞬、邪な心が顔を出してしまうことが何度もあった。一瞬で済んでいるからなんとかなっているし、いつもというわけでもないけれど、その弱さを天道は常に抱えている。
唇を舐め、熱くなりだした頭に落ち着けよと命じる。こいつのことはわからないが、言いそうなことはわかるはずだ。
早速桜庭が、『仕事中でなければわからない』と、平静を取り戻したように返してくる。
「わかるよ。おまえだって、そんな気がしてるんじゃねえか? この前の仕事でキスをしてみて、おまえは確信を得た。あんなものは大した行為じゃない。誰とだってできる。じゃなきゃ──」
あんな言い方はしてこないだろう、唇を貸せ、だなんて、簡単に。俺がおまえをどう思ってるかも知らないで。おまえとのキスを夢見た朝の潰れるような胸の痛みを知らないで。
芋づる式に浮かんでくる理不尽な恨み節を余さず呑み込んで続ける。
「キスなんて、普通は好きなやつとしかしたくないようなことをテストに選ぶわけがない。好きなやつがいねえからそんなこと言えるんだよ。俺は撮影でする時だっていつも緊張するぜ。でもちっとも嬉しくない。毎回毎回、好きなやつとちゅーしてぇなって思う。仕事だからしょうがねえけどさ」
これも体験談だ。
『……いるのか』
「今はいねえよ。いなくてもだよ」
これは嘘。
「ほんとに好きなら、目が合っただけでも、小指の先が触れただけでも何か感じるもんだぜ。好きなやつとのキスなんて考えるだけでドキドキする。ドキドキするけどしたい。隙あらばキスしたいってなるんだよ。それだけで、この気持ちが恋なんだってわかる」
『……』
「でもおまえは、何でもいいと思った上でテキトーにキスを選んだ。何でもいいから、俺のことなんてどうとも思ってないっていう確かな証拠が欲しいって。確かに、キスをして何も感じなければ、きっぱり否定できるだろうな」
『僕は、』
「否定したいんだろ。さっきそう言ったじゃねえか」
『こっちの話も聞け。いいか、否定したいからといって、僕は試験内容としてあえて無意味そうなものを選んだりしない。自分を納得させられなければそれこそ意味がないだろう。目が合えばと君は言ったが、そんなものは人によりけりだ』
「そりゃそうだろうけど」
『キスも考えなしに選んだわけじゃない。確かめる方法を思いつかなかっただけだ。他にどうやって確かめろと言うんだ? セックスか? 君は僕に興奮できるのか』
「おまっ……えはどうしてそう先へばかり急ぐんだよ。好きかもしれないってなったらふつう他に真っ先に試してみることがあるだろうが。順番を考えろって」
『──順番?』
「そう順番。まどろっこしいかもしんねえけど大事なことだぜ。おまえも嫌いじゃないだろ、そういうちゃんとしたの」
『……ならされた道があるなら、近道より先に確認すべきだとは思うが』
よし、と唇で言って通話口を押さえ、天道は深く深く息を吐き出した後で同じだけの空気を吸い込んだ。
あとはそう難しくないだろう。頭の中で手順を組み立て、一つずつ桜庭に差し出していく。
「じゃあさ、付き合ってやるからまずはデートしようぜ。あ、この付き合うってのはデートに付き合うって意味な」
『デートするのがキスよりも確かな方法だと?』
「確かだぜ。いきなり唇ぶつけるのとは比べ物にならないくらい、ちゃんとしたムードが出来上がるからな」
『ふむ……』
「デートをしてみて、テストとかじゃなく普通に俺とキスしたいって思ったらそれは好きってことだし、キスなんてしたくはならないけど楽しかったら友達」
『ああ。つまり、くだらない時間を過ごしたと思えば、』
「もちろんただの同僚ってやつだ。まだ今は、だけどな。おまえとしちゃあそれが万々歳」
『……』
「わかりやすいだろ?」
実際には、お互いに好きだとしても必ずしもデートが成功するわけじゃない。特に初デートなんて緊張しすぎていたりすれ違いが出来やすかったりして楽しむどころじゃないのが普通なんだけど、桜庭のためを思うならさっさとはっきりさせてやった方がいい。
あいつは嫌な疑惑なんて振り切って、自分の進みたい方角へ真っ直ぐ進むべきだ、と天道は思う。桜庭ってやつは優しくて柔らかくて熱い感情を胸の奥にひっそり抱えた最高に良い男だ。恋をしたらめちゃくちゃ良い顔をするんだろうけど、その最高に良い男を構成しているのはその感情だけじゃない。桜庭の理性だって大事にしたい。
諦めろと心に強く命じて目を閉じる。今までずっと諦め続けてきたのに、桜庭の方にそれらしい動きがあったからって喜んじゃいけない。むしろこれは天道にとってのピンチだ。
──キスなんてもの試して、もし万が一、本当に好きだったらどうするつもりなんだよ。それどころか、おまえ仕事以外ではファーストキスになるんだよな。そんなん、好きじゃなくても好きになっちまうかもしれないじゃねえか。身体が先に恋するってこともある。もし万が一、なんてことがあれば、今までが目じゃないくらい悩むことになるんだぞ、おまえ。俺がどんなに苦労して、おまえへの気持ちを見せないようにしてると思ってるんだよ。俺の気持ちを知ったおまえが、まかり間違っても俺に惹かれたりしないようになんだぞ。万が一を無くすためなんだぞ。それすらありえないっておまえは言うんだろうけど、恋の始まりが相手からの好意だったってパターン、実はめちゃくちゃ多いんだぜ。
『わかった』
凛とした声が頭に響いて、そこでごちゃごちゃと騒いでいた自分勝手な思いがすっと静まった。まつげの隙間に水滴が染み込んだ気がして、何度か瞬いてから開く。
「納得したか」
『ああ。数秒で済むキスに比べると圧倒的に時間が掛かってしまうのが悩ましいが、友情の方も否定出来るとなれば決して悪いことじゃない』
「はは、そこは否定されないことを祈るぜ」
『ふん。それで? どれくらい付き合ってくれるんだ、君は』
「え、何回もデートする気なのか?」
『いや時間のつもりだったが……、何度か試した方がいいのか?』
「ああいや、試すって目的なら一回で充分だろ。時間はおまえが望む限りだな。空いてる日送ってくれれば調整して連絡する。あ、丸一日が無理なら一番空いてそうな日でも場所とか時間合わせるぜ」
『……空いているなら丸一日でも付き合うということか。本当にお人好しだな、君は』
「俺もおまえと遊べるの嬉しいんだよ。一日でも二日でも都合つけてやる。俺の方は、おまえのこと友達だって思ってるからな!」
『勝手なものだ』
ふ、と軽く空気が擦れる音が聞こえて、それが溜息ではなく笑い声なのだとわかった。胸がじわりと熱を持ち、頬も緩む。
あーもう、これでいいよ。好きでいるのも嫌いになるのもただの同僚だと思い込むのも諦めて、親友になろうぜ、俺たち。これからもいっぱい遊んで、一回だけデートのつもりで遊んだよなって、いつか笑い合おうぜ。笑ってくれよな。
『──日取りについては追って連絡する。それで君が一日を僕に費やしてくれるなら、行きたいところがあるんだが』
「おう! 実は俺もおまえと行きたいとこ色々あるんだけど、今回はおまえのためのデートだしな。そっちの希望を優先するぜ」
『助かる。だったら、僕を君の故郷に案内してくれ』
「は……」
──何だって?
『思うに僕は、君のことを知らなすぎる。全く興味が無かったからな。しかし、だからこそ判断に迷うということもあるのかと歯がゆく思っていたところだ。この機会に君への理解を一気に深めておきたい。メンバーのことをよく知っておくというのは、今の仕事を続けていく上でも役に立つだろう』
「……」
『確か福島としか聞いてなかったはずだが、よほどの山奥でなければ日帰りでもそれなりに滞在できるんじゃないか。君が育った場所の風景を目にすれば、何かわかりそうだ。出来れば、君が食べてきたものも口にしてみたい。アクセスはどうなんだ? 君が暮らしていた辺りは』
「……」
『おい天道。駄目なら駄目と──』
「あっ、お、おう、わかった。ダメじゃないぜ。歓迎する。うちらへん、行きたいんだな」
『……そこは駅から近いのか』
「あー、うん、まあまあ。なんとかするよ」
『ああ、頼んだ』
桜庭がさらりと言った台詞の数々に翻弄されて頭が真っ白になり、電話の終わり際に何を話していたのか、おやすみとかまた連絡するとか、そんなことを何度か口にしたような気がする。
熱くなった携帯電話を横に置くと部屋は静かで、夢の中でも何でもなく、現実のベッドの上でひとりきり座っていた。
さっきまで手が届きそうな距離感で話していた相手は近くにいない。握っていた温もりは機械で、耳の側にあるように感じていた唇は遠い。桜庭はいま、ここにはいない。
ふと思い出して膝に目を落とすと、雑誌が開かれていて、そこには恋する男の顔をした桜庭が写っていた。目の前の相手に夢中になっていても、格好良くて綺麗で、色っぽい。
手のひらで余計な部分を隠して、桜庭だけを見る。
──あのさぁ、桜庭。頼むから、あんまり舞い上がらせるようなこと言わないでくれよ。
「俺はちゃんと諦めてるってのに」
釘を刺すように声にした。
◇
改札前に立ち止まっていたのは桜庭だけで、それが普段なら人波でごった返す東京駅のことだから、まるでこの世ではない、不思議な世界に入り込んでいるかのように思えた。桜庭が一日限りのデート相手としてああして天道を待ってくれているんだという感慨も、少し影響しているんだろう。
今日だけは俺だけの桜庭。でも、俺だけはデートだと思っちゃいけない。
見つめすぎてコートの背中に穴が空く前に駆け寄り、横に並んで手を上げる。
「悪い、ちょっと待たせたな」
「時間通りだ」
定型文のような会話が面映い。デートかよ。デートなんだけども。デートじゃないんだって。頭の中で浮かれたノリツッコミをかましながら、用意していた切符を出して片方を桜庭に渡す。その手に視線を向けた桜庭が怪訝そうな顔をした。切符ではなくその下を見ている。
「それが朝飯か?」
「おう、着いてからちゃんとしたの食わせてやるから、今は一個ずつな。何でもいいって言ってたから適当に買ってきたぜ」
「……そうか」
お気に入りのおにぎり屋さんで、握りたてを頼んで買ってきたものだ。それくらい作っていこうかとも考えたが、専門店のものはやっぱり美味しいし、それこそ浮かれたことをしてデートらしさを演出しすぎてしまっても困る。桜庭を喜ばせたいという心には逆らえないからの折衷案だ。前に見つけて食べた時に桜庭にも食べさせてやりたいと覚えていたものを選んできた。
「この店の牛しぐれ、すげえ美味いんだぜ」 どうだ、と軽く持ち上げて笑ってみせる。だがいかにも不機嫌そうに唇を歪めた桜庭はふいと前を向いて、「乗り遅れるぞ」 と一言、先に改札を抜けていってしまった。
「あ、おい桜庭! ……もしかして作って欲しかったとか?」
「路線は繋がってないのか」
無視かよ。突然何のことだと思ったら、歩きながら切符を見せられた。東京から矢印で繋がれた先の地名を確かめたらしい。そこには、これに乗ると伝えていた新幹線やまびこの途中停車駅が印字されている。在来線の駅名ではないから、到着してから別の鉄道やバスに乗り換えるのかと思ったんだろう。
「ああ、言ってなかったっけ、そこが俺の地元。今日の目的地だな。大きい駅じゃないから止まらないこともあるけど、止まってくれれば一本で行けるし、時間もそれほどかかんないぜ」
「ふむ。駅からはそれなりに離れていると言っていたか」
「いや、そうでもない。車ならすぐだな」
「なんだ、もしかして結構な街なのか」
「比べるところによるな。こっちほど色々揃ってるわけじゃないが、住みやすくていいところだぜ」
「──そうか。僕にとってはどうだろうな」
「はは、もしかしてもっと田舎っぽい田舎を期待してたのか? 東京にだってそういうところはあるから、また今度ドライブに行こうぜ。翼も誘ってさ」
「君たちがいたらどこだろうとやかましくなる」
「いいだろ、楽しくて」
「君の楽しいを僕に押し付けるな」
「お、悪くないって顔してる」
「うるさい」
やっぱり桜庭といるのは楽しい。押し付けたりしなくても、きっと桜庭も同じように思ってくれているだろう。友達のように。
話しながらホームへ上がる。
飲み物を買う為に立ち寄った売店の雑誌コーナーでふと桜庭が嫌そうな顔をしたから聞いてみたら、とある女性向け雑誌に載っていた恋愛チャートなるものを、以前やらされてしまったらしい。あまり参考にならないぞなんて憮然としていたから、そこでも桜庭は恋をしていると言われてしまったんだろう。相談者の誰が差し出したのか知らないが、あまり桜庭を追い詰めてやるなと思う。
そのうちに時間は過ぎていた。駅に滑り込んできた到着した車両に乗り込んで、指定の席を探す。
二人掛けの列の窓側が桜庭に渡した方で、通路側が天道だ。トランクケースを奥へ押し込んだ桜庭に、
「あれ、荷物上げないのか? それなら乗るだろ。貸してみな」
上の荷物棚を指差して尋ねる。女の子とのデートなら上げるよの一言で動いていたところだが、残念なことに身長だけなら桜庭の方が高い。かえって機嫌を損ねたりしないよう声を掛けた天道に、桜庭は首を振って言った。「これのことは気にするな」、と。
「──そういや、ただの日帰り観光なのにどうしてそんな大荷物なんだ?」
「いま言ったことを聞いてなかったのか。気にするな、と僕は言ったんだ」
「ったく、」
「これには、……今度受けるオーディションの原作本などが入っている。これだけなら機密ではないが、手を離すことはできないし、他人に触れさせたくない」
「他人かよ。俺にも話来たからタイトル知ってるんだけど」
「他人だ。知ってるからどうだというんだ」
「……。本なんていつ読むんだよ。俺と一緒に居るってのに」
「まさか、乗ってる間まで話している気じゃないだろうな」
他人というワードに気を取られ、本を一冊入れるくらいでトランクケースを転がしてきたことへの違和感にはピンと来なかった。疑問が再浮上した時には聞き直すタイミングを逃していたし、まあ桜庭が気にするなって言うんだからその方がいいだろう。
うまくいくことばかりじゃない。何を考えてるのかわからない。
それは桜庭と過ごしていて、あまりにありふれた当たり前のことだった。
◇
結局、新幹線の中では天道も本を読んでいた。鞄の中に入れっぱなしの文庫本が出てきたからだ。
つまりまともに会話したのはおにぎりを食べる時だけ。だからといってあの程度の諍いを引きずってぎこちなくなるなんてことはなく、いたって普通におにぎりの話をした。地元までは新幹線なら一時間半も掛からずに着いてしまう。そんなに近いなら食事は着いてからでよかっただろうと言われるかと思ったが、おにぎりが口に合ったのか小言ひとつ無かった。
これがデートだということを天道すら忘れてしまいそうになったが、むしろ望むところだ。
やがて切符の片側に印字されていた駅に定刻通り到着し、ホームへ降り立った桜庭は軽く周囲を見渡しながら「やはり寒いな」とぼやいた。
「今日はそんなに変わんなくねえか?」
「いいや寒い」
「手袋外したからだろ」
「……一理あるか」
この辺りは東北といっても雪が少ない。予報によると天気もしばらく安泰だし、それこそ山奥にでも行かなければ降ってくるのを見ることすらできないだろう。
少し離れたところで足を止め、桜庭が手袋を着け直す横で携帯電話を開く。到着時刻を知らせてあった母から、ちょうどメールが届いたところだった。
「母さんもいま着いたって」
「はっ?」
「俺の母さん。下で待っててくれてるから」
「待て、聞いてない」
「ぜんぶ俺に任せるっつってたじゃねえか。ほら行くぞ」
「まさか君の実家もコースに入るのか」
「行かねえと思ったのかよ。むしろ一番の目的地だろ、俺のことが知りたいとか言うなら」
「だが……、」
「んん? まあおまえが嫌なら予定変えるだけだけどさ」
「……っ、嫌とは言ってない。まるで興味が無いわけでもないが、外から見られればそれでいいと」
「家見て何がわかるんだよ。そんな遠慮しなくても、家に友達呼ぶのなんて普通だろ。車も貸してもらうしな」
あいにくだが、高校卒業後すぐに上京する予定があった天道は実家に愛車を預けていない。タクシーを連れ回すかレンタカーを借りるという手もあったが、母が自分の車でいいと言ってくれたから甘えることにしたのだ。うちには他にも乗れる車があるから、困ることもない。
「……そうか」
桜庭がまだ微妙そうな顔をしているから車のことかと思って軽く説明したものの、反応は芳しくなかった。「荷物があるから車はありがたいが……」と呟いたようなその声にも明らかに張りがない。
「どうした? 気掛かりがあるなら言っておけよ」
「いや……、そうだな、僕のことは友人だと伝えたのか?」
「え? いや桜庭だって言ってある……けど……、ってか、別にそのくらいはいいだろ。俺の方は友達だと思ってんだから」
「柏木が来ないと知ってがっかりされただろう」
「はは、まあ三人揃ってDRAMTIC STARSだからなあ」
でもすげえ喜んでたぜと笑いつつ、重い足取りながらようやく歩き出してくれた桜庭に歩調を合わせる。横目に見た顔はどこか青白い。まさか緊張してるんじゃないだろうな、この見た目に反してめちゃくちゃ度胸のある男が。デートらしくならないよう、友達を地元に案内するだけ、と考えて考えて考えすぎて選んだ場所だったが、桜庭には敷居が高かったか。
「それに……くそ、手土産すら用意していないじゃないか」
「要るか?」
「馬鹿者、逆の立場で考えろ。子どもじゃないんだぞ」
渋い顔で言われて、なるほどと納得した。ただの同僚という気でいるだろう桜庭からすれば当然の主張だ。それならと東京駅で買ったお土産の黄色っぽい紙袋を軽く持ち上げてみせる。
「ならこいつをおまえからってことにしようぜ」
「それをか?」
「母さんが好きなんだよ」
「……仕方ない。金はあとで払う」
「昼飯奢ってくれればいいぜ」
「わかった。新幹線のチケット代はどうする」
「帰りの分買ってねえからそれで」
山奥でもド田舎でもなかった俺の地元に対する桜庭の初見感想は、「山が近いな」だった。そんなに山が気になるなら、ハイキングデートではダメだったんだろうか。高尾山とか。
迎えに来た母の車は、前に来た時と変わらない真っ赤な軽ワゴンだった。荷物が乗せやすくていいらしい。その広々とした後部座席には桜庭が乗り、とはいえトランクケースが場所を取りそうだったので天道は助手席に落ち着く。
事前に釘を刺しておいたせいか、母が必要以上に桜庭に絡むようなことはなく、窓の外を見ている桜庭に天道の方が必要以上に絡むという、たぶん桜庭の感覚としてはいつもと変わらない図式になった。自覚しながらも話しかけすぎてしまったのは、DRAMATIC STARSの曲が流されていたのがいたたまれなかったからだ。気にしていたのは、天道だけだったかもしれないけども。
家に着いてすぐに用意してくれた軽めの朝食を桜庭と挟み、今日は片付けも任せて自室へと引っ込む。慣れ親しんだ部屋はほぼそのまま一人息子のために空けられたままだ。
「撮影でもないのに、朝食を二度も摂る日が来ようとは」
トランクケースを引き入れてドアを閉めた途端、桜庭の口からは早速天道への文句が飛び出した。思わず笑う。さっきまでは軽い営業モードの桜庭だったからギャップが面白い。お金にならない笑顔を振りまく桜庭はかなり貴重だと思う。
「あとでちゃんとしたの食わせるって言っておいただろ?」
「悪いがちゃんとしすぎて腹がいっぱいだ。少し休ませてくれ」
「そりゃもちろん。でもおにぎりのことは伝えてたから、あれでも少なめなんだぜ」
「なに……。君が朝から騒がしくいられる理由の一端を見たな。ああ、君の作る料理が悪くない理由の方もだが」
「つまり俺の理解を深める作業は順調と」
「そのくらいのことで理解した気にはなれんがな」
部屋の一角に押し込めてあるソファを勧め、自分は勉強机の方の回転椅子に座る。デート中だということをふと思い出したけれど、思い出してしまったら余計に隣になんて座れない。
部屋を見渡している桜庭を見守りながら、あと半日をやり過ごす意思を静かに固める。
桜庭と友達になろう、その考えこそが天道の中ですでに固まっている結論だ。つまり友達にならないという道は、もう考える必要が無いということ。悩みがあるとすれば、いかに桜庭と周囲の目からこの気持ちを隠すかということにあり、それだけを考えればいい。
それでもつい、考えてしまう。浮かれちまってるんだろうなっていう自己分析も、あんまり役には立ちそうになかった。喩えるならピンボールのレバーをひねって球を跳ねあげてみるように、本当にこの結論しかないのかと出口を探っている。
桜庭が天道のことを知りたいと言ってくれたのが嬉しい。丸一日デートできるのも、テリトリーに来てくれたことも、そこを案内できるのも嬉しい。好きだと思う。一緒にいたい。腕の中に抱きしめて、一日中でもキスをしていたい。
でも、桜庭の中にあるかもしれない恋心を掘り当ててしまうのはおそろしい。もし好きになってくれたら──くれてたら、そりゃあ嬉しいけど、だからといって桜庭が天道を受け入れるとは思えない。きっと桜庭は、何もわからずに悩んでいる今よりもっと苦しんで、こんな気持ちは捨ててしまいたいと願うに決まっている。天道への想いの為に苦しむ桜庭なんて、想像するだけでも胸が痛い。桜庭を苦しめたくない。恋しすぎてベッドにひとりうずくまる夜を過ごさせたくはない。苦しみ以上の何かを与えてやれればいいけど、何があっても幸せにしてやるから俺を好きになれだなんて、前職の頃だったとしても伝える勇気が持てたかどうかわからない。言ったところで、桜庭が信じてくれるわけもない。
友達。親友。それで何がダメなのか。ダメなどころか、一番いい。友達の天道になら、桜庭はいつか笑ってくれるだろう。頭を悩ませることもなく、心のまま、翼やプロデューサーといる時みたいに、穏やかな顔で。それが二人にとって一番安心できる落ち着きどころだ。
いつ考えても逸れることがない一本道の思考。ピンボールの球はレールの上を転がって、盤上にたった一つ空いている穴へと落ちる。
そうだ、子どもの頃のみっともない笑い話をたくさんしてやろう。くだらない失敗談、友達とバカをやった話。そういう若さに本気で眉をひそめるほど心の狭い奴じゃないから、嫌われるってことも無い。
友達になろう。なってくれよ、桜庭。
短くない思考の間も、天道の視界には桜庭だけが入っていた。ガランとした本棚を見終わったのか飾り棚に目を移した桜庭が、あ、と何かに気付いたような声を上げたので、頭の中のもやもやを振りほどいて意識を絞る。
「玄関と、飯を食わせてもらった部屋にも大きいものが飾ってあったな」
「何がだ?」
「君をデフォルメしたような置物だ。赤くてヒゲがあって丸い」
「俺は別に丸くは──ん? だるまのことか」
桜庭が見つけたそれは、飾り棚の隅に置き去りにしてあった小さなだるまの置物だった。部屋にあるのはあっさりめのモダンなデザインでヒゲも顎のものが目立つくらいのシンプルさだが、応接間や玄関に飾られているものは伝統的な鶴亀松竹梅だから全く天道には似ていない。
「赤だけで言ってるだろ、おまえ」
「それだけじゃない。君は、何度滑ってもまったく懲りないだろう。しつこくて敵わんが、七転び八起きと言えば聞こえがいい。それにダルマというのは、どこだかの言葉で”法”を意味するんじゃなかったか?」
「おお……、言われてみると確かに……!」
共通点のようなものはあるかもしれない。あんな立派な顔も、モデルになったお坊さんみたいな立派な信仰心も持ち合わせてはいないが。
これまでも身近にあったものなのに急に親近感が湧いて、この部屋の守りを頼んでいた八頭身ヒーローの隣からだるまを取り出す。
「よく滑ってると言われて喜ぶとはおかしな男だ」
「そこには喜んでねーよ」
笑いながらハンカチを取り出し、薄く被っていた埃を払ってやると、あっさりしたデザインでもだるまだけあって福々しい顔が、やけに格好良く見えた。受験祈願で両目が揃った縁起物だ。東京に連れて帰ることを決めて箱を探す。
桜庭は部屋を眺めるのに満足したのか、好き勝手動いている天道へ視線を向けながら言った。
「そういえば、駅の土産物屋にもだるまが並んでいたな」
「ああ、それはこの辺の名物だからだぜ」
「名物? 福島名物の置物といえば赤べこじゃないのか」
「赤べこは会津の方だなぁ。ちょっと距離あるし、同じ福島でも別の地方なんだよ。ま、赤べこ自体は結構あちこちに売ってるけどな」
「……なるほど。新撰組の仕事をした時に地元愛が見えなかったのはそういうわけか。武士道を語るのに夢中だからかと思っていたが」
「え、いつかの年末にやったでかいやつのことか? そんな前のことよく覚えてたな」
「記憶力は悪くない。頭に引っかかったのもたまたまだ」
「……おまえって意外とそういうの見てるよな」
振り向くと、天道の動きに気付いて顔を引き締める前の桜庭が、少し微笑んでいたように見えた。
ああ、嬉しい。
学生時代のアルバムなんかは全部東京に持っていってしまったので、それより前の写真とそれにまつわる小さなエピソードを二つ三つ紹介した。桜庭はあまり興味の無いような顔をしていたが、悩みの解決に繋がるかもしれないと考えているせいか大人しく聞いていた。若い頃に何度も読んだ本や、大事に取ってある変身ベルトなんかも──さすがに呆れた顔はされたが──見せたりした。部屋によく友達が来ていたことを見抜いた桜庭から聞かれて、どんなことをして遊んでいたかを話したりもした。
ひと段落したところで壁時計を確認すると、もう昼になろうかという時間だった。秒針が動いてるから、時計は止まっていない。母が淹れたコーヒーを飲み干してお盆へと戻す。
「そろそろ出掛けるか」
「腹なら減ってないぞ」
「わかってるよ。俺もまだ入んないし、あちこち回ってから遅めにラーメン行こうぜ。友達がやってるとこなんだけど、すっげえ美味いからあんまり早く行っても混むしさ」
「今度はラーメンか……。今日一日でどれほどのカロリーを摂取する気だ?」
「うっ……脂肪め! しぼめー! なんつって……」
「萎むべきは君の口だな」
「くっ……、さっきは俺の不屈の精神を褒めてくれてたじゃねえか」
「褒めてない。似ているとは言ったが」
「それに、よく食うやつも好きだろ? 翼とかさ」
「……まあ、好意的には思っている。君のことよりはな」
「わざわざ言わなくていいっつうの……」
話しながらお盆を持って部屋を出て、トイレに行っておきたいという桜庭に場所だけを教えると、見つけた母へ声を掛けてから玄関に向かう。
靴箱の上には、車の鍵の他に、色紙とペンが用意されていた。母からは、良かったら、とだけ聞いている。直接頼むと断りづらいかもしれないと気にしたんだろう。トランクケースを手に洗面所から戻ってきた桜庭に頼むと快諾してくれたが、ずいぶん左上に偏った場所へとサインを入れられた。
持って帰って翼にも頼んだ方がいいんだろうか。ひとまず自分のサインは残さず、同じ場所に色紙を裏返して置いて家を出た。
それから夕方までの時間は瞬く間に過ぎていった。
断固として助手席を拒んだ桜庭だったが、ミラーに映る顔は外の風景を興味深そうに見ていたし、口数は少ないものの天道の話にはよく耳を傾けてくれていた。ミラー越しには、呆れていたり、楽しげだったり、面白そうにしたりつまらなそうにする桜庭の横顔もよく見えた。それと何度か、君らしい、という言葉を聞いた。桜庭の中にいる天道はどんな男なんだと気になって仕方ない。
小中高の母校近くを走り、よく遊んだ自然公園や山の近くを走り、祭りの時には混み合う堤防を走り、地元の友達が勤めている店に顔を出すついでに昼飯を食べたり買い物をしたりもして、青かった空は気がつかないうちに赤みがかっていた。
「この辺りを見渡せるような場所はあるか」
そのうちに光が闇に押しつぶされてしまうのを惜しむかのようなことを言われて、天道はすぐに思い浮かんだ場所へ向けてハンドルを切った。深くは考えずに。
◇
展望台は街のど真ん中にこんもりと盛り上がった山の中腹、その北側にある。
あまり高い山ではないから駐車場からそんなに長い距離を歩くというわけでもないが、舗装された道ばかりを歩くわけじゃないと説明しても桜庭は自分の荷物を車には置いておけないと譲らず持って降りた。
そういえば桜庭はずっとそのトランクケースを転がしていた。天道の家に寄った時もキャスターの部分を拭いてまで部屋の中に持ち込んでいたが、中身は一度も見ていない。新幹線の中で本を出し入れする姿を見たくらいだ。
「貴重品でも入ってるのか?」
車に置いておけないということはそういうことだろうと聞くと、桜庭は少し考えてから頷き、「そんなところだ」と曖昧に答えた。やはりあまり触れられたくはないらしい。
「疲れたら持ってやるよ。それくらいはいいだろ」
「コロコロがついてる」
「土の上転がしてたら壊れちまうかもしれねえじゃねえか」
「そうなったとしても自分で持てる」
「……わかったよ」
とても軽そうには見えなかったけれど、桜庭はそんなこと問題じゃないというような顔をしていた。
寒い時期だからか閉園時間が間近だからか、周辺には人影が無かった。流石に夜が近付けば冷え込む。吹きっさらしの階段を上りきり、着いたところで少しだけだぞと言って隣を見ると、桜庭の鼻や頬はもう赤らんでいた。展望台の手すりまでトランクケースを引いて歩きながら、
「今回は、迷惑を掛けたな」と言う。
「いや? 楽しかったぜ、すっげえ楽しかった」
良い思い出が出来たよ。そんな当たり前の一言にもおかしなものが滲んでしまいそうで口に出せず、天道はすべてを無言の笑みに込めた。背中を向けている桜庭の目に入ることはない。表情をニュートラルに戻しながらゆっくり追いついて、桜庭へ半身を向ける角度で立ち止まって転落防止の木枠へ手を置いた。暮れかかっている小さな街は東京にある事務所の屋上から見る景色のように輝いてはいないけれど、懐かしくて温かい。来訪人の目にはどう映っているのか。
桜庭は並んだ天道を確かめるように一瞥し、すぐに目を伏せて前を見た。
「……友人、か」
「ん?」
「楽しければ友人、と君はそう言った」
「おっ、なんだおまえも楽しかったって?」
「まだ僕の話はしていない」
そうは言っても、桜庭の気持ちを整理する為、このデートを持ちかけた時に話したことだ。デートをして、キスがしたくなったら惚れている、したくなくても楽しければ友達で、つまらなかったらただの同僚。
「じゃあおまえはどうだったんだよ」
「……君が楽しそうだ、と思っていた」
「おまえの方はつまんなかったって?」
「そうじゃない」
冷たい風が通り過ぎて木立が鳴る。桜庭は天道の方へ目を向けず、身体を向けることもせず、街を見下ろしたままでいる。写真を撮られている時のモデルみたいに綺麗な角度で。
天道はふと、アイドルじゃなかったことがウソみたいに整った顔してるよな、と今更のことを思った。横から見た唇の形があんまりにも綺麗で、踏ん張っていなければ吸い寄せられそうになる。寒さに凍える頬にも。
唇は天道の視線によって止められることなく自由に動く。
「僕は知らぬ間に、君の友人になっていたんだな。今日まで知らずにいたが、理解した」
「え。──ん?」
桜庭の顔を見ていたから、すぐには頭が働かなかった。
つまり、友達でないと言い張っていたが、それは間違いだったと認める、そういう話だろうか。それにしては、知らなかったと付け加えたのがわからないが。
「おまえも楽しかったってことか?」
「だから僕の話じゃない。君が主張していたように、僕は君にとって確かに友人であったらしいな、と言ったんだ。僕といることを心から楽しんでいるような君を見てそう思った。これまでは、口先だけのことだと考えていたが」
「ははぁ……、なるほどなあ。口先だけ、と……」
外面の良さを責められているような言葉選びだが、実際のところ、半分くらいなら思い違いじゃない。桜庭は仲間で友達で同僚だろと自分に言い聞かせている節もあるからだ。
でもそれが、桜庭にとって何だというんだろう。こいつはどうあってもお姉さんと自分が主体で、天道が桜庭をどう思っていようがどうでもいいんじゃないんだろうか。
訝しむ天道を見ないまま、桜庭は綺麗な唇で言葉を紡ぐ。
「君は、人の笑顔が好きだ。笑わせるための無駄な努力を怠らない一方で、日頃からつるんでいるのは穏やかで微笑みを絶やさない人種が多い」
「おい、無駄ってどういうことだよ」
思わず口を挟むのを、黙っていろというような目が睨みつけてくる。視線を景色の方に戻し、桜庭はそのまま続けた。
「もちろん柏木も、プロデューサーもだ。君の母や旧友もそういう方のように見えた。君はいつも陽だまりに包まれて、楽しげに笑っている」
「……でもな、」
「そんな男が、僕といて楽しいわけがないだろう、と僕は考えてたんだ」
まるで論文でも読み上げているかのような発言だった。すぐさま、「違う」と声をあげる。どんなに睨まれたって、これだけは言わなければ。
「確かにおまえといると喧嘩ばっかりになるし、苛立つことも、悔しくなったり、わけがわかんねえってなることあるぜ。ちっとも笑ってくれねえしよ。でもさ……、それでも、……多分だけど、そういうの全部合わせて、俺はおまえといるのが楽しいんだよ。他のみんなといるのだってもちろん楽しいけど、だからって、」
「理解した、と言っただろう。そうも言わなくていい」
「……」
とん、と胸に何かが触れる。見ると、天道の胸をノックしていったらしい桜庭の拳が離れていくところだった。
「僕も、君といるのは嫌いじゃない」
はっとして視線を上げる。
天道を小突いた手が眼鏡を直した。仄かに、耳が赤い。
「いつもならわずかに感じる疎外感──いや、別に気にしていたわけじゃないが、今日はそういうものすら感じなかった。他の誰もいないから君は僕を見ているしかなかった、などと捻くれたことを言うつもりはない。君は僕から目を離さないまま、明らかに楽しそうにしていた。そして常に、僕に理解できる言葉で話した」
──そういえば、と天道は数時間前のことを思い返す。
友達が修行している工芸品工房に行った帰り、君の口は方言を忘れたのかと聞かれた。
今日の天道はほとんど桜庭のことしか考えていない、つまり地元の友達や母と話している時も、近くに桜庭がいれば桜庭を会話に加えている気で話していたから、ほとんど無意識に標準語のみを使っていたのだろう。
東北の訛りが根深く残っている土地だから、発音ひとつ取っても他県民の桜庭には違和感が強かったに違いない。まして工房の主は、天道ですら聴き取ることしか出来ないような古い言葉を多用した。その相手と話すのにも標準語を貫いた天道の口に、方言を忘れたのかと問いたくなるのは当然だ。
もちろん天道が標準語を覚えたのは東京で弁護士としてやっていくためで、福島弁を忘れたわけじゃない。試しに強めの方言で話してやると桜庭は面白そうな顔をしたが、意味がわからんと言われたのでそれきりやめた。同じ言葉を使っていてさえ分かり合えなかったりするんだから、これ以上の隔たりなんて作りたくなるはずがない。
「カップルがやたらとデートを重ね、夜景を見に行きたくなるのが分かった気がするな」
「え」
不意に驚くべき言葉が耳に飛び込んできて、ぱちりと目を瞬く。一呼吸。違う、これは一般的な話だ。そうであるはずだ。
戸惑う天道を置き去りにして、桜庭の口は動き続ける。
「この景色の中には数え切れないほどの人間がいるというのに、君と僕はここにいて、君は僕を見ている。そのことを僕はもっと深刻に受け止めるべきで、君に向かう感情から目を逸らそうとするのは不誠実だ。君への評価がどうあれ、僕は君に極めて友好的な感情を抱いてしまっている。それを認めよう」
「さくらば、」
「君への理解は僕が思うように深まった。道程も、──楽しかった。礼を言う」
そして桜庭は天道の方へと顔を向け、口端に淡い笑みを浮かべた。
強い衝撃が勢いを持って天道に襲い来る。知ってたけどと得意になる気持ちと、本当かよと疑う気持ちが左右からやってきて、天道の唇を両側から引っ張った。疑ってる方も『桜庭がまさかそんなことを口にするなんて』だから、結局ぜんぶが胸を揺らす衝動、喜びだ。頭の中はぐちゃぐちゃになって一部だけが鋭く痛い。ふらついてしまった膝の片方が、何かにぶつかる。手すりを握る。もう片方の手はにやけた顔が見つからないよう、桜庭との間へ急いで立てた。
「お、おう! ってことは俺たち、晴れて両思いの友達──だな!! へへへっ」
「なんだそれは。普通に友人関係に落ち着いたということでいいだろう」
「……へへっ」
「ところでこの手は何だ」
「あっ、おっ!」
桜庭との間を隔てていた手を払われ、慌てて背を向け、顔を覆う。いやだ、見るな、みっともねえ。
頬どころか、顎までしっとり濡れていた。指の間を熱いものが次々に伝い、溢れていくのをどうしても押しとどめることができない。嬉しいと思っても、何も考えるなと思っても、何かが身体の奥底から湧き出てきて両手を濡らす。背中に何かが当たったような感触は桜庭の手だろうか。コートと手袋に隔てられているから振動しか伝わらない。
「なにも泣くことはないだろう」
「らいへねぇ!」
「君には友人など、それこそ星の数ほどいるだろうに」
「類やねえんらから……」
「ふ、確かに。……そろそろ閉園時間だな。戻るぞ」
「ン」
「君の思うようについてこい。僕なら君の歩幅くらい、見なくてもわかるからな」
「ン……」
そうしてゆっくりと、車まで戻った。
桜庭の背中を見ながら歩く途中で涙こそ止まったものの、運転席に乗り込んだ天道は手の中で転がした車の鍵をすぐに差し込む気にはなれなかった。もう帰るだけだから、母さんと、もしかしたら父さんとも顔を合わせなければならない。そんな気分じゃない。それに、こんな情けない顔を晒してもまだ桜庭といたい。
──と、後部座席の方から声がした。
「少し歩いてくる。荷物を頼んだぞ」
もとよりそのつもりだったらしく、桜庭は車には乗り込まず、荷物だけを置いてドアを閉めた。離れていく後ろ姿を窓越しに見つめ、背中まで綺麗な奴だなと思って、またじわりと涙が浮かんだ。
ハンドルに突っ伏していたから、どれくらいの時間が経ったかわからない。そう長くは無かったように思う。いきなりドアが開いて驚いたのは、この旅の間ずっと近くにあった車輪の音が聞こえなかった理由を天道が忘れていたから、それと、開いたドアが助手席のものだったからだ。
「ほら」
「お、サンキュ」
投げるように渡された缶コーヒーを受け取り、すぐに開けて口をつける。桜庭はしばらくカイロ代わりにするつもりなのか、片手で缶を握ったままだ。
「寒いならエンジンかけようか」
「出る時でいい」
「りょーかい」
こくりと一口飲んで、時間を確かめる。最終の時間まではまだかなりの余裕があった。明日もオフだから遅くなっても問題はない。
「おまえ、明日の予定は?」
「朝の六時までは君とのデートだから、帰ったら夕方まで寝ているつもりだ」
「……冗談だよな?」
「そうだな、夕方までは言い過ぎたか」
「……」
そっちじゃねえよと突っ込みたかったが、桜庭の場合はあながち冗談とも言い切れない。でも徹夜デートなんてことになったら、何を口走るかわからない自分が怖い。せっかく丸く収まったところだったのに。
「そういえば」
「ん?」
プルタブを爪で弾いた時のカチリという金属音の後に、桜庭が言った。
「君はさっきの場所で誰かとキスをしたことがあるだろう。学生の頃か?」
「っ……!!」
「おい……」
「おいはこっちだ! なんてこと言うんだおまえはよ!」
ティッシュを取り、思わず吹き出してしまったコーヒーを慌てて拭きながら、隣の男に喚き散らす。
確かにそんなことはあった。相手の子もはっきり覚えている。でもそんなこと、今の今までこれっぽっちも思い出さなかったのに。
「ふむ、カマをかけたんだがやはりか。雰囲気が良かったから君ならと思ったんだが」
「うううう……」
「ほら天道、こっちを向け」
車内灯が点されて辺りがはっきり見えるようになる。ハンドルに飛び散ってしまったコーヒーを拭ききるのに助かると思ったが、桜庭は天道の顔を覗き込んできて眉を寄せた。
「少し目を閉じていろ」
言うが早いか瞼に指の腹が触れ、上からそっと冷たいものに覆われた。桜庭の手だ。コーヒーの缶を握ってたはずじゃないのか。どれだけ冷え性なんだこいつ。なんて、心配の方に心を割いて、余計なことを考えないようにする。あ、結構気持ちいいな、これ。
「こういう時は冷温を交互にして血行を促してやるのがいい」
こういう時ってどういう時だ。
しばらく置かれて温くなった手と交代でやってきたのは、それよりも熱い手。そうか、こっちの手だけを缶で温めてたんだなと納得して、いま桜庭がしているのが泣いてしまった天道の瞼周りのケアであることをようやく察した。とはいえ、とても落ち着けるもんじゃない。桜庭が窓を開けたらしく冷たい風が吹き込むが、顔周りがもろもろで熱くて。
しばらくするとまた冷たい方の手が瞼に触れた。ひんやりして気持ちいい。
「その辺りにコンビニが見当たらなかったんだ。気休めだがマシにはなるだろう。これで我慢してくれ」 そう言いながらしばらく治療は続けられ、解放されて目を開けた時には車内灯が消されていた。外から見られたら何事だと思われるだろうから、天道が目を閉じた後にでも消されていたんだろう。代わりに近づけられたスマートフォンの明かりに桜庭の笑った顔が映る。
「ふ、君、まだ照れてたのか。赤いぞ」
「友達にキスしたとこバレたりしたらそりゃ照れるって」
「目の方はマシになってる」
「そっか。ありがとな、せんせ」
「僕はもう医者じゃない。君もアイドルだという自覚を忘れないように」
「おう」
顔の火照りは引かないもののすっきりとした気分で笑ってみせると、桜庭も応えて微笑んだ。さっきみたいな笑顔もいいけど、これもいい。どっちも嘘みたいに綺麗で可愛い。
キーを回してエンジンを掛け、助手席の桜庭がシートベルトを締めたことを確かめてから、実家へ戻る道に車を進める。
桜庭の笑顔より欲しいものなんて、ひとつもあるわけがなかった。
それから桜庭の指示で帰る前に花屋へ寄り、小さな花束を作ってもらってそれを実家用の追加のお土産にした。夕飯は駅で軽く蕎麦でもと思っていたが、家で引き止められてまた山盛り食べ、連休なら二人とも泊まっていけというのを振り切って家を出た。
終電というわけでもないが遅くなってしまった。行きと同じ名前の新幹線に乗って東京へ。
帰りの新幹線ではさっそくスマートフォンを触り出した桜庭に天道は何も言わず、窓の方を見てぼんやりとしていた。関係も落ち着いたことだし、好きにしていればいい。数時間前の嵐など嘘のように穏やかな気分だった。
「写真の一枚でも撮っておけばよかったな」
急に桜庭が口を開いたので、また来ればいいだろと返す。
桜庭のサインだけが書かれた色紙のことをすっかり忘れていたから、今度は翼も連れて三人で来てもいいなと思う。それこそ会津の方に行ってもいい。磐梯山や五色沼、風の高原にひまわり畑を見に行くのもいい。夏なんて特に、涼むのにいいから。
そんな話をすると京都だってと張り合ってきたのがおかしかった。京都に見所が多いことなんて、世界中が知っている。
「山も近い」
嵐山とかだろ。それも知ってるよ。
「それに京にはだるま寺と呼ばれる寺があるんだ。だるまそのものが大量に祀られている奇怪な寺だが、君には面白いんじゃないか?」
わかったわかった、次は京都に行こうな。今度はデートなんて銘打たずに、ただの観光旅行として。泊りがけでもいい。
それで叶うなら実家くらいにはお邪魔させてくれないものかと、まだ不埒なことを考えていた。友情ではないものが混入しているから不埒だ。これまで押し潰して隠し続けていた想いが潰れ切ることがなかったように、これからも静かに桜庭を想い続けていくんだろう。
◇
東京駅八重洲口。
あと一時間も経てば日付が変わるというのに駅は人に溢れ、一日離れていただけの大都会に対して、帰ってきたんだなという強い感慨を抱いた。ここはもう第二の故郷だ。デートは終わり、桜庭のことを見ているのも、天道ひとりではなくなる。
「それじゃあな」
「ああ。また明後日、現場で」
手を挙げ、背を向けて改札前で別れる。
あっさりしたものだ。今日の集まりは最初で最後のデートだったというのに。周囲には別れを惜しんでいる恋人たちがいて、こんなに人目がある中でキスまでしてたりするってのに。
──ああ、デートだってことにかこつけて最後に手くらい握っておけば良かったな。
姑息なことを考えながら、人の流れが切れた場所で振り向く。桜庭はもう別の場所に歩き去った後──と、思っていたのに、いた。
ただし天道を見送ってくれているわけじゃない。桜庭は朝に待ち合わせをした時に立っていたのと全く同じ場所で立ち止まり、スマートフォンを持って何かをしている。目の前を通る人の数は朝の閑散が幻だったかのように膨れ上がっているから遮られてよく見えなかったものの、しばらく様子を窺って、分かった。
桜庭はスマートフォンを構えて写真を撮っている。天道が見ているうちに終わらないのは、パネルに反射する光が気になるからか、片手にトランクケースの持ち手を握っているからか。
──何でおまえ、『それ』を?
疑問に思いながら踵を返す。
理由が気になったのもあるが、何組かの女性が立ち止まり、ちらちらと桜庭の方を見ていたからだ。そりゃあ見るだろう。ファンならここを通るたびに『アレ』に目をやるのは不思議じゃないし、『アレ』を撮ろうとしている者がいたら仲間かと思って意識を向けることもある。そして、熱心に写真に収めようとしているその男の正体に必ず気付く。
桜庭のほうが撮られてしまう前にと周囲から庇うように立ちふさがり、「何してんだよ」と声をかける。
「なっ──」
随分と集中していたらしい。大きく肩を揺らした桜庭の無防備さに嘆息する。いつもなら立場が逆なんだけどな。
「見られてる。離れようぜ」
「あ、ああ」
天道は戸惑っている桜庭のトランクケースをその手から奪い、先導してまずは人混みに紛れる方向へと歩いた。
しばらく進み、あまり使われていない連絡通路の方へ行けば、簡単に人目を振り切ることができる。利用客が多いといっても広大な駅だから、時間によってあまり人が通らなくなるような場所はあちこちにあるのだ。柱の影に入って振り返り、斜めに引いていたトランクケースを前に立てる。それを追ってきただろう桜庭だったが、触れて欲しくなさそうだった割には怒って天道の手から奪い返すようなことをしなかった。荷物を挟んだ向こう側で立ち止まり、考え込むような顔をしている。
心底わからない。こいつが何を考えているのか。
桜庭が改札の前で撮ろうとしていたのは、鉄道会社のポスターだった。それには福島出身のアイドル、天道輝が使われている。東北新幹線の利用客増加を見込んであの辺りに貼られているものだ。
自分で見るのは誇らしくも恥ずかしいから人前ではあまり視界に入れないようにしているが、大きな仕事だったから桜庭だって知っている。あっちで、写真を撮っておけば良かったと話していたから、今日の思い出に? それなら風景の方がメインになっているポスターが他にある。デートをしたっていう思い出に? そんなわけないよな。
「どうして俺のポスターなんか撮ってたんだ……って、別におかしなことでも…ねえけどさ、ちゃんと対応しろよ──もし、今日のことをラジオとかで突っ込まれたら」
段々と声が小さくなっていく。
仲間の仕事を喜ぶのは普通のことだし、天道だって桜庭や翼のポスターが街なかに貼られているのを見つけたら、嬉しくなって立ち止まったり、記念に撮ったりする。でも、それをしていたのが桜庭で、おまけにその対象が天道となると話は別だ。仲が良いんですねとか他の誰に言われたって、天道だけは信じない。撮影されたものを更に撮影してどうするとか言う男だぞ、こいつは。スポンサーのサイトで高画質の画像が手に入るのにとか言うやつだぞ。顔を手放しで褒められたことは無いし、この仕事についてだって特にコメントされた覚えはない。対抗心は燃やしていたようだが、東北絡みの仕事に桜庭は呼ばれないから、研究するべきものは他にある。
天道の訝しげな視線に耐えかねたのか、桜庭は不機嫌そうに真横を向き、別にいいだろう、と小さく漏らした。
「君の写真が必要だった。探せば家にもあるだろうが、ちょうどいいものが目に入って──つい」
「俺の…? なんで……」
ついってなんだよ。間抜けた声しか出ない。わけがわからない。
桜庭は応えず、天道も思考から何から固まって、何人かの利用客が桜庭の後ろを通り過ぎていくのを目だけ動かして見送って、そして先に動いたのは、いつしか顔を赤く染め上げていた桜庭の方だった。吐く息ひとつにも緊張が籠もっているような動きでスマートフォンを取り出し、手帳型カバーの、その画面を保護していた部分を背後に畳み、天道が見ている前でゆっくりと指を動かす。そして言った。
「──こうするためだ」
ことさらゆっくりと、桜庭が動く。いや、天道の目にはそう見えていたというだけのことなんだろう。少し俯きながらまぶたを下ろした桜庭は、口元に引き寄せたスマートフォンの画面に、その形の良い唇をもってタップした。感覚的には十秒くらいはかかっていたが、実際にはほんの一、二秒の出来事だった。桜庭の指はずっとかすかに震えていた。
「……なんで」
ついさっき口に出したのと同じ三音が天道の唇から転げ出る。
もちろん聞きたいことはさっきと違う。天道の位置から見えるわけじゃないが、桜庭が震える手で握るスマートフォンの画面に映っているのは──。
「当然、」
天道の思考は桜庭の声によってあっさりと打ち消された。教えてくれるなら教えてもらいたい。はっきりとその口で。
「当然、君とキスがしたい、と考えたからだ。一日のデートを終えた、感想として」
「──っ!」
「……」
「っ……そんなこと……、おまえ一言も……。だって楽しかったって、……」
「思ったことをすべて君に教える必要はあるまい。楽しかったのは事実だ」
「……」
喉が灼かれてしまったかのように声が出ない。
キスがしたくなれば恋慕、楽しければ友情、そうでなければ私的な感情は持たれていない。もちろんそれは極端な話で、きまぐれとか、状況とか、色んな要素が絡み合うこと、なんだけど。そういうことじゃないのかよ。勘違いじゃないのか。
一瞬目が合って、弾かれたように離れる。自分がいまどんな目で桜庭を見てしまっているのか、天道にはわからない。身体中がざわめいている。
「……今日を過ごして、僕は、一世一代の恋くらいならしてもいいと思ったんだ」
ざわめく耳に、桜庭の声が触れる。すぐ後ろに人がいたとしても、天道にしか聞こえないような小ぢんまりとした声だった。
そして桜庭はきっと顔を上げ、天道を見据えて更に続けた。明朗に。
「桜庭薫、一世一代の恋だ。聞け、すべてを打ち捨てるような恋を、僕は一世一代の恋とは思わない。名前も夢も仕事も思い出も、大事なもののすべてを持ったまま、僕という存在が僕のまま恋をすることができるなら、僕は受け入れられる。そう、決めていた」
頭が追いつかない。何か立派なことを言った。立派そうなことを言った。でもタイトルは恋だ。桜庭に似つかわしくない。
「決めて……いた」
情けなくもオウム返しするしかない天道を、桜庭の涼やかな目が見ている。
「そのトランクの中身を教えてやろうか。──中には僕にとって非常に大事なものが詰め込まれている。トランクひとつで、この命と同等くらいだといってもいい」
「えっ、こいつがか!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
行きの新幹線に乗った時から気にするなと言われていたトランクケースだ。桜庭はほとんどずっとこいつから手を離さず、歩く時も先程の天道のように後ろへ引っ張るのではなく、基本的には横を並走させていた。だが今は、天道の手の中に。慌てて持ち手に左手を添える。
そんな天道の様子が面白かったのか、桜庭は口元を隠すような動きで眼鏡を直した。
「研究データはバックアップがあるから取り返しのつかないことは無いが、姉の遺品を無くしていたらしばらく立ち直れなかっただろうな。金やパスポートはもちろん、あらゆる証書と譜面、台本──ああ、辞表も入ってるぞ。衣装を詰めてきたかったところだが、あれは僕だけのものじゃないからな」
「おい……」
「つまり僕は、このトランクを持ってさえいればどこにでも行けた、とそういう話だ。心残りになるようなものは、家に置いてこなかった」
「どうしてそんなこと」
考えればわかるような気もしたが先を促す。一世一代と言った桜庭の覚悟を、どんなに小さなことだって読み間違えるわけにはいかないからだ。この件ばかりは桜庭も、言わなくてもわかるだろうと誤魔化さないと信じたい。
桜庭は言った。
「──これを持って東京から逃げるつもりだった、と言ったら怒るか」
「ああ許さねえな。俺の大事な仲間がやまびこに殺されたら、俺は死ぬまで故郷に帰れねえ」
「物騒な言い方をするんじゃない」
「同じことだろ。笑えねえ冗談はいいからどういうことか教えろよ」
冗談と言ったのは言葉の綾だが、どちらにせよ話の枕だ。桜庭が逃げるわけがない。
天道の強い否定に桜庭も頷き、そうだなと言った。
「ああ、もちろん僕には逃げる気など無かった。これを持って君の故郷へ行き、一日を過ごした後は何事もなく帰ってくるつもりで荷物を詰めた」
「当たり前だ。それで?」
「待ちたまえ。君は本当にそう思うか? そんなことは絶対に、微塵の可能性も無いことだと」
「え……」
「いや、君は恋を知っているようだから、そうかもしれないな。君にとっては恋などその程度のものなんだろう。──だが僕は恋を知らなかった。それがどんなにおそろしいものか、あるいは想像よりもたやすくコントロールできるものであるのか、ほんのわずかな体験すらもしてこなかった。物語に描かれるような恋は多くがおおごとで、それこそ命まで投げ打つようなものさえ少なくないというのにだ」
「……」
「物語を鵜呑みにするわけじゃないが、最悪の事態として、恋をした僕が君さえ居れば他には何もいらないというような境地に至る可能性は考えておかねばならなかった」
「その程度のものってとこにとりあえず抗議したいんだけど」
「その程度だろう。命より重いものなど無い。命より軽いのなら、すべてがその程度だ」
「……まあ、どんなにひどい恋をしてたって、死のうとは思わねえな」
死ぬことで守れるものがあるなら考えはするが、死ぬことで守れなくなるものの方が怖い。たった一人を守れればいいなんて生き方を、天道はするつもりがない。
桜庭の命であるところのトランクケースを見下ろす。ここには桜庭が言っていた難病の研究資料も入っているんだろう。もし桜庭が自分よりこいつを守れと言ったら、天道は危険を犯しても両方を守る。自分の命も。
「とにかく僕は、そんな感情を決してこの身に認めるわけにはいかない。たとえどんなに、君とキスがしたくなったとしてもだ」
「出かける前からそんなこと考えてたのかよ。恋なんかじゃないってすっげえ言ってたのに」
「少しも可能性が無かったらそもそも君とデートになど行ってない。その上で、君へのこだわりが恋と呼ばれるものであったことがはっきり判明したら、と僕が考えずにいられたと思うか。まったく無防備に自覚だけして、恋に、君に突き落とされるなどまっぴら御免だ」
「つき……」
天道の脳裏に、新幹線のホームに引かれた白線の外に立つ桜庭へ、唇をぶつけようとする自分の姿が思い浮かんだ。ホームドアがあるから、実際にはありえない光景だ。
想像の中の桜庭は、危ない場所にいながら平気な顔をしている。平然と天道を受け止めている。
桜庭というのは危なっかしいようで、余程のことが無い限りは踏ん張ることのできる男だ。線路際でキスをされたって踏ん張れる。線路の先へ行こうというなら自分の意思で白線を踏み越え、新幹線に乗り込むこともできる。白線の外側は危ないからと天道が引っ張り続けてやる必要なんて、はじめから無かった。そう、だったのか。
「わかったか」
「……つまりトランクは試金石だったと」
「ああ。そいつを持って、あるいは投げ捨ててまで君と逃げたいなんてことを考えたら、僕は必ず、この感情の息の根を止めていた。考えた段階で終わりだ。どんなに感情が泣き叫ぼうが許しはしない」
「おまえはおまえで物騒だな」
「もののたとえだ」
「……そっか」
ふんと鼻を鳴らした桜庭に、トランクケースの持ち手を差し出す。
頼まれたらそれこそ必死で守るけど、桜庭はこれを、誰であっても託したくはないだろう。このトランクケースが桜庭にとってどんなに重いものなのかを知っている。恋のことで気を回しすぎていたのもそうだが、持ってやろう、棚に上げておいてやろうだなんて──。まあどれも、いつもの君だなと桜庭には言われてしまいそうな気もするが。
と、スーツケースに関する桜庭の意図を理解したところで新しい疑問が浮上した。
桜庭は天道に何も告げずにデートを過ごし、帰ってきて、そしてポスターの写真を取り、天道の目の前でキスをした。その心の内では何が起こっていたんだろう。天道があれこれと悩んでいる一方で、桜庭は何を考えていたんだろう。首をひねり、迷いながら口を開く。
「なあ、それでどうなったんだ? キスしてたの本物じゃなかったけど、どういうこと? あっ……そういや駐車場でおまえ、助手席の方に来ちまってたな……。あれって……いやでもっ、あれは俺が変だったからだよな! 考え直す余地あるっていうかよ!」
「いや……、君と乗る車の後部座席になら置いておいていいと、判断したのは僕だ。一時的なら、君になら、預けられる。というか……だな、それで覚悟した、という……ところもだな……。ああ……、自覚そのものはその少し前のことだったが……」
「あ…れ…?」
ダメかと思ったらやっぱり大丈夫なのか。そうなのか。──そう思っていい、よな?
桜庭の歯切れが急に悪い。
すっかり俯いてしまって、でも天道だって、そんな桜庭が不器用な言葉で何を話そうとしているのかすら読み取れないほど、桜庭への理解が浅いわけではなかった。何せ拒絶されてない。眉根を寄せた顔は決して満たされているようには見えないけれど、だからこそわかる。ぷすぷすと焦げている。耳なんてだるまくらい赤くて、ああ、すっげえキスしたい。コートにポケットに突っ込まれた片手は、きっとあのスマートフォンを握っている。壁ドンとか、しちゃってもいい? ちょっと角度が悪いな。
「あのさ、桜庭、俺おまえのこと、」
「待て、言うな! 決心が……。君と友人になれたことを、これでも僕は喜んでるんだ。喜べなく…なりたくない……。いや、そうではない可能性も、僕は少し、感じているわけだが……」
「……?」
可愛い顔でぶつぶつと何か言い出した桜庭を前に、ひとつの仮説が頭に浮かぶ。
──もしかしてこいつ、楽しかったとだけ俺に伝えてきたのは、振られたくなかったからなのか?
桜庭は恋を殺す必要を感じなかったから一世一代の恋ならしてもいいとそれを認め、認めたのはいいものの告白は見送ってポスターを撮影した。そこを天道に見られ、捕まった。スマートフォンへのキスはたぶん賭けで、じゃなきゃ駆け引きだった。長々と立ち話を続けたのも、天道の気持ちを探るためだったのかもしれない。
大胆なのか慎重なのかわかんないやつだな。
きっと同じように赤くなっているはずの天道の顔を見てるはずで、それでも自信が持てないんだろうか。一度きりのデートの行き先にひとの故郷を指定してきたくせにとおかしくなってきて、耐えきれず吹き出す。
終電をアナウンスする駅員さんの声が、どこかで繰り返し響いていた。
F.